牧師のメッセージ

<2023年12月24日待降節第4主日礼拝説教「主はわれらのただ中に住まう」>

聖書:ゼカリヤ書2章14節~17節                 石井智恵美

「娘シオンよ、声をあげて喜べ。/私は来て/あなたのただ中に住まう、と主は言われる。」(2:14)

クリスマスおめでとうございます。
しかし、今年は、世界ではウクライナやパレスチナの戦争、国内ではジャニーズ事務所の性加害の問題、自民党の裏金作り、大企業の不正が次々明るみに出た年でもあり、素直におめでとうと言えない気持ちです。私たちの世界の闇がますます深まっていることを、この年の瀬に感じざるをえません。
 本日の教会暦の聖書個所は旧約聖書のゼカリヤ書は、こう記している。
「娘シオンよ、声をあげて喜べ。/わたしは来て/あなたがたのただ中に住まう、と主は言われる。」(2:14)
闇が深まり、いったいどこから助けが来るのか、どこに希望があるのか見えないような私たちのこの世界に、神が来てくださり、私たちのただ中に住まう、と約束してくださっています。これこそが私たちに与えられているクリスマスの約束です。闇が深まるわたしたちの世界のただ中に、神の御子イエスが与えられ、宿ってくださっているのです。どれほどの混乱のなかにあっても、解決が見えないように見えても、神がこの世界に宿ってくださっているのなら、私たちは決して孤独ではありません。私たちは神の支えのもとにあるからです。神が共にいてくださるのです。インマヌエル―神共にいますーそのしるしとして赤子のイエスが与えられました。そのことをあらためて確信するのが、クリスマスの出来事です。
ヨハネ福音書では「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(1:14)と告げられています。
「肉」サルクスは、原語のギリシャ語では、罪や弱さが宿るもの、人間の限界、もろさ、はかなさ、永続性のなさを表す言葉。そのような弱さ、はかなさ、罪なるものを宿す「肉」に、神であるロゴス・神の言が宿ってくださるのです。永遠なるものが、限りある肉になってくださった、という奇跡のような出来事が、クリスマスの出来事です。ヨハネ福音書の言葉は、このゼカリヤの預言の言葉とつながっています。
  今日の聖書個所を記した預言者ゼカリヤは、預言者ハガイと共に活躍した預言者として知られています。紀元前515年第二神殿完成以前に活躍しました。バビロン捕囚から解放された帰還民は、祖国に帰還した喜びもつかのま、周辺の敵対勢力との抗争や、共同体内部の対立などで疲弊してしまい、いったんは開始された神殿再建事業は中断されてしまいました。その中で、預言者ハガイは神殿の再建を帰還民に呼びかけたのです。
 目の前の現実がどれほど困難であっても、いやだからこそ、神に自分の力を献げることから出発することを、ハガイは預言の中で熱く訴えたのです。このハガイの活動を引き継いだのがゼカリヤでした。ゼカリヤの預言もまた、困難のただ中で、「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」という神の呼びかけがあることを民に伝えました。
 人はしかしこうも言うでしょう。「神がすでに来ておられるのなら、なぜ、このような悲惨な出来事が起こるのか。なぜ戦争を止められないのか。なぜ、平和が来ないのか」と。イエス・キリストがこの地上に来られてからの2000年の間、幾度となく繰り返されてきた問です。その問いへの答えは、わたしたちには隠されています。隠されているという現実の中を、私たちは今日も生き抜かねばなりません。しかし、わたしたちには「神が共におられる」という約束の成就としてクリスマスの出来事が与えられています。そしてそのイエスは「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」という教えを語りました。「なぜ、悲しむ人が幸いなのか」と苦しみのただ中にある人は、怒るかもしれません。しかし、イエスは「悲しむ人こそが、幸いであらねばならない、幸いであれ」と神の支えがすべての人のもとに来ていることを告げ知らせたのです。だからこそ、このような楽観的な言葉を語ることができたのだと思います。そして、実際に悲しむ人、苦しむ人、病の人々と共にいてくださいました。人の中に存在する“愛する力”をイエスはそのようにして引き出してくださいました。クリスマスに生まれた御子は、私たちと同じように悩み苦しみながら、先が見えない現実を人々と共に生き抜かれました。そのことが答えです。そこにこそ神の愛が現れています。私たちもまた困難な現実を生き抜く中でそれぞれの答えを見出すことでしょう。神の愛に出会うでしょう。「主はわれらのただなかに住まわれた」その出来事であるクリスマスを心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。

「復活の主との出会い」

<日本基督教団三鷹教会 2023年4月9日復活節第1主日イースター主日礼拝説教 > 
             
三鷹教会牧師 石井智恵美

聖書:ヨハネによる福音書20章1節~18節 
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。』」(20:1~2) 

  主イエスの遺体が取り去られた空っぽの墓。それがイエスの復活の最も古い伝承です。マグダラのマリアの最初の問い「主がどこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」空っぽの墓。それは人間の予想を超えた出来事です。イエスの十字架上の死も、空っぽの墓も。
  マグダラのマリアは、どうしてよいのかわからずに泣いていました。再び身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体が置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えます。この天使はマリアに問います。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)マリアは弟子たちに言った言葉をまた繰り返します。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」
  次のところが不思議です。「こういいながら後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとはわからなかった。」(14節)後ろで人の気配がしたのでしょうか。マリアは前にいる天使たちに話しかけているのに、なぜ振り向いたのでしょうか。振り向いたけれども、それがイエスだとはわからなかった。私たちは探しているものが目の前にあるのに、気づかないということがしばしばあるのではないでしょうか。衝撃の中で困惑してしまい、それに気づかないのです。しかし、そのような迷いの中にいるマグダラのマリアにイエスは語り掛けるのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを探しているのか」これは天使の問いかけと同じです。そしてマリアはイエスのことを園丁だと思って、三度目も同じ言葉を繰り返します。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」(15節)
  イエスの遺体を引き取る、というマリアの覚悟は、イエスへの深い思慕を示しています。それほどの深い敬愛で結ばれていたのです。マリアはしかし、見当違いのところを探しています。もうイエスの遺体はない空っぽの墓の中を。死が支配している領域をマリアは探しているのです。しかし、復活のイエスは正反対の方から、永遠の命の方から姿を現します。「マリア」と呼びかけるイエスの声、その懐かしい声を聴き、マリアはイエスである、とわかるのです。「ラボニ」(先生)とマリアは応えます。
  「復活」は、原語では「起こされる」という意味で、「甦らされる」という受動態です。ですから、イエスが超人的な能力をもって自力で蘇ったのではなく、神によってよみがえらされた、というのが復活の出来事です。それは、呪いと恥辱にまみれた十字架の死が、神によって全き肯定をされた、ということです。イエスの生涯のすべてがそこで肯定されたのです。
  そして復活されたイエスはマリアに呼びかけます。大切なことは、この復活の主との出会いがマリアに起こった、ということです。イエスの死の衝撃の中、マリアも弟子たちも混乱の中にありました。自分たちの力ではどうにもならない出来事。命の危険にもさらされている。そのただ中で、復活のイエスとの出会いが起こるのです。この「マリア」「ラボニ」の応答の中に、出会いの喜びがあふれています。今までの衝撃が嘘のように取り払われて、その喜びだけが輝いています。
  ですから17節「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は、少し奇妙に響きます。
なぜ、この喜びでひとつになった復活の主との出会いに、イエスは水を差すようなことを言うのだろう、と思います。ここは、ヨハネ福音書をもう少し読み込むと答えが少し見えてきます。
  ヨハネ福音書の受難に向かう直前の「イエスの祈り」では、父である神と子であるイエスがひとつになっているように、イエスと弟子たちもやがて一つになる、と約束をしています。イエスがこの世を去った後に、助け主である聖霊が送られて弟子とイエスは一つとなり、そのことによって父なる神とも一つになる、ということを。マグダラのマリアにも復活の主イエスはそのことを示したのではないでしょうか。イエスへの思慕に流されるのではなく、最も求めるべきことは聖霊に助けられて一人一人の信仰者がイエスと一つになり、神と一つになること、それをこそ生きなさい、とイエスのことの言葉は示しているのではないでしょうか。
   マリアはこの出来事の後、「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げ、イエスから言われたことを伝えます。復活の主が私たちに求めているのは、イエスと一つになり、神と一つになること、そのように自立した信仰を生きる、ということではないでしょうか。私たちはマグダラのマリアや弟子たちのように、見当違いの方向に主イエスを捜してしまうこともしばしばでしょう。しかし、そのたびに、命の方から呼びかけてくださる復活の主がいらっしゃることを思い出しましょう。神がイエスを甦らされたということは、呪いと恥に満ちた十字架の死を含めたイエスの生涯のすべてをまったき肯定で包まれたということです。この汲めども尽きない不思議な復活の出来事を、私たちは生涯かけて味わってゆくのではないでしょうか。

「不思議な風が吹けば」

<日本基督教団三鷹教会 2023年5月28日聖霊降臨節第1主日聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝説教>          
                                                     三鷹教会牧師 石井智恵美

聖書:使徒言行録2章1節~11節

「5旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、”霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2:1~4)

  本日は聖霊降臨日、ペンテコステの祝日です。クリスマス、イースターとしてペンテコステが教会の三大祝日とされていますが、一番わかりにくいのが、このペンテコステかもしれません。それは「聖霊」のわかりにくさ、なのでしょう。私たちは今日のこの聖霊降臨の出来事をどのように受け止めるでしょうか。聖霊はわかりにくい、とお話ししましたが、生きてゆく中で、なぜかわからないけれど、勇気が湧いてくるようなとき、だめかな~と思うようなときでも、やっぱりがんばってみようと前向きに自分を奮い立たせる時がありますね。そういう時、聖霊が働いているのではないか、と私は思うのです。
  私たち現代人はいつもたくさんの情報にさらされていて、それを分析したり推測したりして、理詰めで自分の判断を決めています。けれども、どれほど正しく情報を分析して決断をしたとしても、結果的にうまくいかない時は多々あります。むしろ、直観的に“こっちが良い”と思える時があり、それに従ってうまくいく、ということも私たちは経験します。聖霊の働きは、この直観的に「良い」「悪い」と教えてくれる力に関わっているのではないでしょうか。それは私たちの思いや思考を超えているものです。そして私たちを確かに善い方向へ導いてくれている力がある、と信頼して自分をまかせること、その勇気を与えてくれるのも、やはり聖霊ではないでしょうか。聖霊は、私たちの思考の狭く小さな枠組みを打ち破って、広く新しい世界に連れ出してくれるダイナミックな生きた力をもっています。その聖霊に信頼することは、私たちはいつになっても狭い枠組みにとらわれない新しく広い世界へと歩みだしてゆくことができる、ということです。そして、過去の失敗や過ちをくよくよしたり、未来の不安や怖れにとらわれるのではなく、今、ここを生きる力を与えてくれるのです。それが聖霊の働きではないでしょうか。そのようにして、主イエス・キリストの教会ははじまったのです。
  先週は、私の恩師でもあったS先生の記念会が行われました。94歳で天に召されましたが生涯現役を貫かれました。S先生は誰にも語れないようなありのままの自分をイエス・キリストに受け止めていただけている、ということが自分の信仰の原点であると、語っておられました。それがどれほどの恵みであるか、と。そして、このイエス・キリストの恵みに応えるには、自分の人生の中で課題を見つけてそれを担ってゆくことだ、と最後に皆に勧めています。その結果が見えなくてもいい。神様が善い働きをしている―そこに自分が生きている間参与する、どんなに小さなことでもよいから、これを生涯続けてやっていこう、という目標をもってもらいたい、と。S先生もきっと何度も立ち上がれないような壁にぶつかったはずです。しかし、その苦しみが恵みに変えられるという経験を何度もなさり、S先生は生涯現役を貫かれました。「不思議な風が吹けば」という聖霊の風は、棚からぼたもち式に与えられるものではない、と思います。キリストの恵みを日々味わい、それに応えようと自分の課題を見つけ、誠実にそれを担うこと―その内実のある所に、こちらの思いを超えて不思議な風が吹くのではないでしょうか。
  不思議な風が、皆さん一人一人の上に吹きわたりますように。その自由のうちに私たちの信仰の歩みをまた歩んでまいりましょう。

「クリスマスーすべての人の喜び」

三鷹教会牧師 石井智恵美

【鈴木まもる作「戦争をやめた人たち」】
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が彼らを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
 今日はみんなに絵本を紹介します。鈴木まもるさんという人が絵と文を描いた『戦争をやめた人たち-1914年のクリスマス』という絵本です。これは本当にあったお話をもとにして描いています。第一次世界大戦のさなかのことです。イギリス兵とドイツ兵がにらみ合っている前線でのお話です。イギリス兵もドイツ兵も塹壕の中に入って、いったい敵がどうやって攻めてくるのか、攻撃がいつ始まるか、緊張しながら相手の様子をうかがっていたのです。クリスマスの日も戦争は続いていました。だけど、その日の夜、ドイツの陣地から歌が聞こえてきました。クリスマスの讃美歌です。言葉はわからないけどメロデイーはわかります。それで嬉しくなったイギリス兵たちは声を合わせて歌いました。すると風に乗って声が届いたのでしょう。ドイツ側から拍手が聞こえてきました。今度はイギリス兵たちが別のクリスマスの讃美歌を歌いました。歌い終わると敵陣から拍手が聞こえます。こうして不思議と戦争は一時止まったのです。翌日、ドイツ兵の一人が武器を持たず白旗をあげて近づいて来ました。相手に敵意がないとわかったイギリス兵たちは、塹壕から出て来て、互いに握手をしたり、家族の写真を見せ合ったりして、最後は服を丸めてボールにして、サッカーをはじめました。「人間の優しさは、戦争より強い」ことを伝えたくて、作者の鈴木まもるさんは、この絵本を描いたそうです。
 今日の聖書には、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちのところに、天使がやってきてイエスさまの誕生を知らせてくれたとあります。羊飼いたちは、他の人が寝静まっている夜中にも働かなければなりません。そんな苦労の中で、自分たちもまた神様に覚えられている、ということを強く感じたに違いありません。そのクリスマスの出来事が心の奥底にあった兵士たちは、一時的にでも戦争をやめることができたのでしょう。敵も味方もない大きな愛を、すべての人に届けるためにお生まれになったイエスさま。戦争が今も起こっているこの世界だからこそ、このクリスマスの出来事を心に刻み、平和の主であるイエスさまを心にお迎えしたいと思います。
            (2022年12月25日子どもの教会クリスマス礼拝お話)