礼拝の一回性
石井智恵美
8月の終わりに皆様にコロナ禍の教会についてのアンケートを行いました。様々な意見が寄せられて大変参考になりました。その中で、印象に残った意見の一つが「礼拝の一回性」ということです。
その方が洗礼を受けた時の牧師からの勧告が、日曜日の礼拝に必ず出席することであり、それを愚直に守り通してきたそうです。それがコロナ禍で対面礼拝が休止となり、教会の会堂に足を運ぶことができなくなった、オンライン礼拝が始まっているが、自分はそれに参加することに抵抗があるとのことでした。そして「それは礼拝の一回性に背くものではないのか」という問いかけがありました。そして「手段が先にあるのではなく、信仰の本質から、コロナ禍の対策も講じてほしい」という意見でした。
私自身オンライン礼拝には抵抗がありました。私も礼拝における「リアル・プレゼンス」ということを、大切にしてきたからです。それは一回限りの繰り返すことのできない出来事が礼拝の場で起こっているということであり、神がまさにそこに臨在しているという出来事に参与することです。そこにこそ礼拝の意味があると信じています。牧師はそれを媒介する者にすぎません。讃美歌や祈り説教もそれを通して参加者が神の臨在に触れることに礼拝の本質があります。
そして、礼拝の録画や録音は参加できなかった人にとって、便利なものではありますが、その日その時に集まるという神さまへの供え物が軽視されることにつながらないか、という危惧もあります。礼拝がいつでも見られるものとなると結局は自分中心の生活のリズムに引きずられ、神中心とすべき聖日の時間のリズムが忘れられてしまうのではないか、という危惧です。礼拝は自分の知的好奇心を満たす講演とは違うのです。
しかし、コロナ禍という100年に一度と言われる出来事の中で、集まれない中、せめてもの代替措置として、事前に説教を配布すること、そしてオンライン礼拝を始めました。礼拝録音、礼拝録画の配信も行いました。画面上とはいえ皆さんに会えるのは嬉しいことです。しかしパソコン環境のない人のことも考えなければなりません。
このことをめぐっては、対面礼拝が再開された時に、皆さんと話し合う必要があるでしょう。会えない、話せない、食事もできない、その中で、どのように神さまと自分との関りを持ち、また、同じ信仰の仲間とつながりあえるのか、もう一度問い直し、関りを創りなおさねばなりません。
「礼拝の一回性」ということは、わたしたちが生きていることが、実は一回限りのかけがいのないものである、ということの現れでもあります。神さま中心の時を、礼拝として私たちは毎週日曜日に祝うのですが、実は私たちの生も一回限りです。今、生きているすべてものが、一瞬一瞬変化していて、次の瞬間に同じものは一つとしてないのです。すべての存在をそのように生かしてめている働きの根底に神がおられます。その神に出会うことは、今、この瞬間にもできるのです。そこに「聖」が立ち現れるのです。